不世出の法学者「渡辺洋三」先生

渡辺法学を語る

追悼論集刊行記念の集い





 恩師である渡辺洋三先生の追悼論集刊行の集いに出席してきました。


 受付を済まして驚いたのが、その追悼論集の本の厚さであった。A5版で7cmもあったのだ。
 その重さのため、宅急便の手配まで受付で準備しておいてくれた。しかも、自宅の住所まで記入してあった。高齢の出席者がほとんどであったので、その準備の良さに感服してしまった。
 そして、法学界では著名な出席者の数々にたじろいでしまう自分がいるかと思ったが、そうでもなかった。浦田一郎氏、浦田賢治氏、杉原泰雄氏、水島朝穂氏、山内敏弘氏、戒能通厚氏、原田純孝氏、小田中聰樹氏、村井敏邦氏、藤田勇氏、森正氏、森英樹氏、北野弘久氏、樋口陽一氏、望月礼次郎氏・・・
 そうそうたるメンバーが一堂に会していた。

 そんな中に、若輩者の私がいてもなんたることはない。これが政治家とかのパーティーだったらそうもいくまい。学者や弁護士らの落ち着いた方々の中では穏やかなものだった。

 久しぶりに大学の講義を受けているような話ばかりか思ったが、そんなことはなかった。印象に残った話に、水島朝穂氏のものがあった。

 受付で配られたものの中の一つに、渡辺先生の戦争体験について書かれたものがあった。




 上記写真の「学士会報1984?No763」にも書かれているが、これまで戦争体験をほとんど他人に話したり、書いたことはなかったということがあった。

 確かに、先生から戦争体験について公私を含めて聴いたことはたった一度しかなかった。それも、当時のビルマでの送った捕虜生活についてであったと思うのだが。

 先生の奥様に聞いても、戦争体験について語ることは、ほとんどなかったという。それは、先生の子どもから聞かれてもであったという。

 そして、語っても、学徒動員により東部三十六部隊に入隊して訓練を受けている時までと、ビルマでの捕虜生活の話であったという。

 肝心のビルマでの最前線での話は誰にも語らなかったのだ。

 ところが、奥様が先生が亡くなった後、整理しているときに一度も開けたことのない引き出しを見てみたのだ。

 そこには、戦友会の名簿などと一緒に、戦争体験について書かれた原稿が出てきたという。戦友会の名簿には、先生だけ肩書きがなかったという。


 戦争体験を記した先生の文字をワープロにおこしたのが奥様であった。それを本にしたのが、「南方一年」ビルマ俘虜記である。
 先生の戦争体験の空白期間がうめられている本であった。
 この本の出版にあたり、防衛省などの資料をも調査したのが、水島朝穂氏であった。
 その話の中でも、軍隊体験や捕虜体験は語るものの、自らの戦場体験については触れなかったと言っていた。
 それが、ある程度だが先生の戦時中の足取りが明らかになったのだ。どうやら、泰緬鉄道沿線の警備をしていたことが資料からわかったのだ。
 そこで、水島朝穂氏の言葉でいえば、映画「戦場にかける橋」のようなものではなかったかということだ。


 先生は、インパール作戦中止の5ヶ月後に、タイ・ビルマ戦前に訪れていた。第15軍の8万5000人のうち辛うじて戦える者は1万8000人にすぎなかったと旧防衛庁の「公式戦史」でさえ評価されているという。

 私の記憶によれば、先生は、「実際に戦って亡くなった人より、病気や餓死によって亡くなった人の方が多かった」と語っていたのを思い出す。おそらく、この頃のことを語っていたのではあるまいか。

 具体的に、この頃の戦場体験について語ることも記すこともなかったのには、「学士会報1984?No763」にもあるように、
 「死と生の境目に生きた三年近くの歳月の思い出は、一生忘れることはできない。 いまでも、こわかったときのことが形を変えて幻想の世界として夢に出て、うなされる。」
ということもあるが、それ以上に、先生の著書「社会と法の戦後史」のなかで、
 「このような無益な殺し合いによって多くの戦友を失ったということ、そのことのもつ意味を、生き残った私たちがかみしめて戦後をいきるという責任の重さは、私の一生の支えとなっている。」
 「もとより個人の体験というものは多くの場合、軽薄であるに過ぎない。自分が苦労してきたということを得々としてしゃべるような人は、多くの場合、誇張に満ちている。それは他人の知らない世界を自分は超えてきた、他人よりも多くの苦しい経験に堪えてきたのだという自我優越感が働いて、とかく大きなことを吹聴したがるからだ。」 「本当に苦しみを味わってきた人はそれについて語ることを好まないということは真実であるらしい。」

 と述べられていることにあると思う。

 水島朝穂氏によれば、旧軍関係者の法要や会合に出席せず、会員録に職業・勤務先を記載せず、回顧録にも執筆せず、またその購入すらしていないという。

 自らの戦争体験の一定部分について意識的に封印し続けたのではないかと話していた。

 奥様によると、
 「インパールから生き延びた悲惨な人たちをみているだけに、自分などが戦争体験などと大きなことを言うのは、憚られる思いがあったのでないでしょうか」
 という。そして、年に一度、大晦日の夜、先生はある「特別」な儀式を行っていたという。

 それは、モーツァルトのレクイエム(「死者のためのミサ曲」K626)のレコードをかけて、じっと瞑想にふけるというものであった。

 先生が生涯を通じて心の底に抱いていた思いとは、
戦争=軍隊という人間として最悪の忌まわしい状況への、苦しい記憶の再現
犠牲者への深い哀悼の思い
ではなかったかと奥様は言う。

 これらの思いが、生涯を通じて先生の仕事のへの意志を支える源になっていたことは間違いないという。

 心の中で抑圧した戦争体験をバネにして、先生は、未だに整理しきれていないほどの膨大な論文を発表してきているのだと思った。

 憲法・民法・法社会学などなど、法に関して多岐にわたる研究をされたエネルギーも、隠してきた戦争体験にあると思った。

 一般的に、法学者は法を研究するのが目的である。ところが、先生は、どうもそれが目的ではなかったのではないかと考えるようになった。

 先生にとって法は手段ではなかったのかと思うのだ。

自らが体験したような悲惨な戦争を、二度と起こさせてはいけない
庶民が平和で安心して生活できるようにするための手段が、「法」というものであった。
 だから、法の多岐にわたる研究に勤しんでいたのではないだろうか。

 
 渡辺洋三先生とのことや、24日の岡山地裁での判決などを、水島朝穂氏は3月1日に彼のホームページにアップすると言っていた。また、4月には新刊も出るという。

        ◇

 余談として興味をそそった話は、先生の高校時代のことである。先生は、旧制一高時代サッカー部に所属し、全国的に名の知れた選手で、名ストライカーであったという。当時もインターハイのようなものがあり、マークされまくっていたとのことである。

 また、あだなが「おっちょ」であったというのもおもしろかった。おっちょこちょいなところがあった先生の性格から来ているとのことだった。

 また、先生は、研究者だけでなく教育者であったという話も聞いた。元枢密院議長の教授や、元検事総長の教授らを前に、会議の席上「学生を見捨てるのか」というようなことを言ったという話も聞けました。

        ◇

 会社の部長とか、校長先生とか、退職するとどこからもお中元・お歳暮がこなくなったという話を聞いたことがある。
 それは、その人に送っていたのではなく、その人の肩書きに送っていただけである。
 真の人間の評価は、そういうものを失ってから現れてくるのではないだろうか。

 亡くなった後の評価が本当の評価であると感じた。生きているうちの評価など、たいしたものではない。

 そう考えると、戒能通厚氏が、渡辺洋三先生を不世出の法学者と言われるゆえんもわかってくる。

 偉大な先生の生き方を間近で感じることができた学生時代を謳歌できたことに感謝したい。

 ありがとうございます

 安らかにお休みください。

 近々、奥様よりお墓を聞いたのでお参りに行きたいと思います。


 その奥様も非常に美しかった。心の美しさが顔ににじみ出ておりました。高齢の女性をそのように感じたのは初めてでした。

 ありがとうございます

※渡辺洋三先生追悼論集は、日本評論社より3月に発売予定とのことです。
詳しくはホームページを↓
http://www.nippyo.co.jp/book/4465.html

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