平和的生存権

平和的生存権の裁判規範性
―人権としての平和―

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序 章

 

第一節 本稿の目的

 人権とは、「人間が人間として生きる権利」である。また、「人間生存の基本的な条件をささえる権利であるという点で、基本的人権ということができる」。註一

 この人権という言葉は、「実定法律学だけの世界にとどまることなく、道徳哲学、政治哲学、法哲学の舞台でも重要なテーマの一つに」註二なっている。

 奥平康弘教授によると、基本的人権の観念は、「実定法の世界の外あるいはそれを超えたところで活発に生きており、まさにそうであることに格別の意義をもっている」という。詳しく説明すると、実定法が承認していない、あるいは、十分に承認していない「ある種の価値」を、実定法化するために用いられているということである。言い換えれば、「権利」ではないことがらを、「権利化」する要求のために、「基本的人権」という言葉を用いているということである。

 このことから、「人権」論は、「超実定法的あるいは実定法挑戦的な性格の強い、その意味では政治要求的、イデオロギー的な風味をともなう観念である」。そして、「実定法の足らざる部分を衝き、実定法を豊富にし活性化する効果をもつのである」。「『人権』というものは野性味豊かで生きのいいじゃじゃ馬みたいなものである。これをひとたび憲法秩序に適合するように飼い馴らすことによって、『人権』は『憲法が保障する権利』となる」。「憲法が保障する権利」となることによって、「『人権』の本性が憲法制度上発揮できる」という。註三

 本稿は、平和的生存権という「野性味豊かで生きのいいじゃじゃ馬」を、飼い馴らしていくのが本稿の目的である。

 一九六二年に、星野安三郎教授の「平和的生存権序論」の中でうまれた「平和的生存権」註四は、まさに、現在のところ、権利という名前が付いているというだけの、未成熟な権利である。そこで、平和的生存権が、保障の伴う権利、裁判規範性のある権利となりうるのか検討し、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存」できるようにするのが目的である。

 

第二節 権利の実例

 アメリカ独立宣言註五には、「すべての人は平等に造られ、造物主によって一定の奪うことのできない権利を与えられ、その中には生命、自由及び幸福の追求が含まれる」ことを、「自明の真理と信ずる」註六と記されていた。

 ところが、「すべての人は平等に造られ」と普遍的な人権を宣言したはずが、アフリカ系の人々や、アメリカ先住民、女性などは権利の制限を受けていたのである。独立宣言を起草したというトマス・ジェファンソンさえも、奴隷所有者であったのである。「自明の真理」というのは、名ばかりのものであった。

 フランス人権宣言においても、「万人の幸福に向かうように」「人の譲り渡すことができない神聖な自然権的権利を、厳粛な宣言において提示することを決意した」註七のである。けれども、「万人の」権利を宣言したにもかかわらず、植民地の奴隷や、ユダヤ人、女性など多数の弱者が、権利の主体から排除されていた。

 どんなにすばらしい宣言を謳ったとしても、保障の伴わない権利は、「憲法の保障する権利」ではない。それは、権利と名前の付いているというだけのものである。権利は、保障が伴うことがなければ、絵に書いた餅になってしまう。権利は、保障があってこそ権利たりうるのである。

 

第三節 保障の制度

 わが国においても、幾つもの基本的人権が謳われている。しかし、憲法の中に謳われているというだけでは、権利を保障するということにはならない。基本的人権は、国会による立法の働きによって補われ、裁判所による救済があって、はじめて、基本的人権が権利として保障されてくるのである。基本的人権は、憲法に明示されているというだけではたりず、そのための制度が伴わなければならない。

 立法の働きについていえば、平和的生存権を、より確実なものにしようと、深瀬忠一教授は、「総合的平和保障基本法試案」註八をつくって補おうとしている。しかし、成立していない。

 「憲法が『権利』を宣揚しても、結局それを政治上の多数決支配に任せしまう」註九立法の働きでは、権利を補うことはできるとしても、保障するとまではいかない。

 そこで、どうしても、司法による救済が必要となってくるわけである。

 日本国憲法が、前文において「平和のうちに生存する権利」と誓った権利が、どのような権利なのか考察し、さらに、憲法が保障する権利として、司法による救済が受けられるのか、裁判規範性を有する人権となりうるのか、検討するものである。

第一章 平和的生存権の歴史的背景

 

第一節 戦争に対する考え方の背景

 一九世紀においては、戦争に訴えることは主権国家の正当な権利の一つとみなされていた。戦争は、国家の政治目的を達成するための適法な手段と考えられていた。いわゆる無差別戦争観が一般的に是認されていたのである。この時代では、戦争の及ぼす結果に対して、国民がなんらかの発言権をもちうるという考え方の生まれてくる余地は、ほとんどなかった。

 これに対して、二度にわたる世界大戦を体験した二〇世紀になると、戦争の及ぼす被害が戦勝国、敗戦国を問わず、ぼう大なものになった。そのため、国家が戦争に訴えることは原則として違法であり、許されないという考え方が一般化することになったのである。一九二八年の不戦条約や国連憲章の基本的な考え方は、そのようなものである。

 このように、戦争を違法視し、平和を維持、実現することがきわめて正当な主張であるという考え方が一般化したのである。

 また、一九世紀以前の戦争は、一国の政府支配層と、他国の政府支配層の間で行われるものとして、一般国民はそのような戦争に直接関わらないことも少なからず可能とされていた。ところが、二〇世紀になると、戦争そのものがいわゆる総力戦となり、一般国民をも直接巻き込んだ形で行われるようになる。したがって、総力戦では、一般国民にもたらす被害が、より直接的かつぼう大なものになったのである。

 たとえば、一九世紀以前と二〇世紀段階で戦死者の数を比較すると、一八世紀には四四〇万人、一九世紀には八三〇万人であったのが、二〇世紀になると実に九、八八〇万人にものぼっている。

 このような中で、直接かつ最大の被害者となる国民が、自ら違法な戦争を拒否し、平和のうちに生存することを願うようになったのである。

 戦前のわが国の例を振り返ってみても、戦争状態の下では国民の人権は保障されないことを証明していた。そうである以上、平和を維持することは、人権を享受するための必要条件であると考えられる。註一〇

 

第二節 人権思想の背景

 人権の歴史は、三段階に分けて捉えることができる。まず、第一段階として、国家権力の恣意に対抗するために、「公権力の不干渉によって保障される権利」として自由権がうまれ、第二段階として、人間としての生存を確保するために「公権力の積極的関与によって保障される権利」註一一である社会権がうまれ、人権宣言や憲法のなかに位置づけられてきた。

 そして、第三段階として、第二次大戦のきわめて悲惨な人類的体験のなかから、市民革命をへて勝ち取った自由権と、資本主義の発達にともなって不平等が生まれ、それを是正して人間らしい生活をするための社会権が、戦争によって無になってしまうという認識のなかで、平和的生存権がうまれたのである。註一二

 

第三節 近代憲法の背景

 近代憲法では、戦争か平和の問題は人権の問題とは考えられていなかった。それは、戦争をすることが人民のためになるのか、戦争をしないことが人民のためになるのかの問題は、選挙の際の人民の投票、議会における評決、すなわち、多数決によって決められる代表民主制の論理の支配する事項であったからである。

 近代憲法が、人権保障部分と代表民主制部分にわかれるとすれば、戦争か、平和か、の問題は、代表民主制の中に入ってくる問題であったのである。

 しかもそれは、代表民主制の論理の支配する事項のなかでは、最も民衆の手の届きにくい事項であった。これについて、高柳信一教授は、次のように述べている。「戦争か平和かの問題は、外交の問題とされました。外交は専門性を必要とします。専門性は秘密を要します。素人があけっぴろげに、自由に議論して、外交が成功するはずがない。戦争か平和かは、人民が、素人がみだりにくちばしをはさむべき問題ではなくて、専門家である政府にまかせておくべき問題だ」とされていたのである。

 「人権は条件付きの絶対権」であるという論理矛盾を、従来の西欧民主主義は、おかしていたのである。民主主義のこのような矛盾をただすために、平和の問題を、代表民主制部分から、多数決の論理の及ばない人権保障部門へ移動しなければならなくなったのである。それは、平和の問題を、人権として捉えなければならないということである。これによって、平和の問題は、多数決の論理の及ばない、いかなる状況に置いても、守らなければならい優越的な価値になったのである。註一三

 

第四節 日本国憲法の背景

 前文第二項の「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」の文言の由来は、アメリカのF・ルーズベルト大統領の「四つの自由」宣言及び大西洋憲章である。

 「四つの自由」宣言は、「言論の自由」、「信教の自由」、「欠乏からの自由」、「恐怖からの自由」をその内容としている。「欠乏からの自由」は、「すべての国家がその国民に健康で平和な生活を保障できるように、経済的結びつきを深めること」と、「恐怖からの自由」は、「世界的な規模で徹底的な軍備縮小を行い、いかなる国も武力行使による侵略ができないようにすること」との文言と組み合わされており、「平和のうちに生存する権利」と関係が深いと思われる。

 「四つの自由」宣言を受け継ぐかたちで、大西洋憲章では、その六項で「すべての国のすべての人々が恐怖と欠乏から解放されてその生命を全うすることを保障する平和が確立されることを希望する」ことを述べている。

 これらは、日本国憲法前文の直接の原型を示しているのだが、注目しなければならないのが、「希望する」から、「権利を有する」に、高められたことである。

 また、日本国憲法では、諸外国憲法あるいは明治憲法で見られるような国防の義務が、何処にも見あたらない。また、軍への協力義務はもとより非常事態宣言、戒厳令体制についての規定もおいていない。

 たとえば、明治憲法一一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、一二条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講演シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」、一四条「天皇ハ戒厳ヲ宣言ス」、二〇条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有スル」というのが存在した。

 日本国憲法は、国民の基本的人権を国政の上で最大限尊重し、憲法二一条によって、明治憲法下で見られた反戦的な出版物等の検閲を廃止し、憲法一八条によって、徴兵制のような奴隷的な拘束からの自由を保障し、さらには、軍事法廷である特別裁判所を廃止した。そして、日本国憲法で、平和に生きる権利をより保障するものとして国民の思想、信条、言論、出版の自由が何等の制約も受けずに保障されているのである。註一四

 

第五節 平和的生存権がうまれてきた要因

 平和的生存権が登場してきた要因以上四点をまとめてみると、

①戦争を違法視し、平和を維持、実現することがきわめて正当な主張で あるという考え方が一般化したこと。

②平和ではない状態、言い換えると戦争状態では、人権を享受すること ができない。そのため平和が人権を享受するための必須の条件である と考えられるようになったこと。

③平和の問題が、代表民主制の部分から人権保障部分に移行して、多数 決の論理が及ばないようしなければならなくなったこと。

④日本国憲法には、戦争のための条項が一切存在しないこと。

 

第二章 国際法と平和的生存権

 

 戦争や軍隊のない状態で平和のうちに生存する人民の利益を擁護しようという考え方は、直接的な形ではないにせよ、国際法においてもすでに採用されてきた。そこで、国際法の視点から、平和的生存権をみていくことにする。

 

第一節 各国に見る人権と平和

 第二次世界大戦以前においては、一九〇七年の陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則(二五条)や一九二二年の空戦ニ関スル規則(二二条)がある。これは、平和への権利の先駆けともいってよいであろう。それは、「一切の戦争と武力保持・行使を放棄した状態にある都市なり、人民は、外部からの武力攻撃を受けることなく、平和のうちに生存しうることを保障したものと捉えることができ」たからである。註一五

 部分的であるにせよ、平和が保障されたことは画期的なことである。そして、このような考え方は、第二次大戦後にも引き継がれていくことになる。

 第二次大戦後、最初に、戦争のない平和を人権として条文化したのは、フランスの制憲議会に提出された急進社会党の人権宣言案である。そこには、「生存する権利が、あらゆる人権中第一の権利である。生存する権利とは、戦争の廃止を意味する」と記されていた。註一六

 一九五〇年代の冷戦状況のなかで、東ドイツのバウムガルデンは、「平和への権利(Das Recht Auf Frieden)」を主張したのである。彼の主張は、「平和への権利」を、「全体としての人民およびそれを構成する個々人」が享有する、「人間のすべての権利のなかで実際上最も意義のあるもの」としていた。註一七

 一九七五年のヘルシンキ宣言は、米ソを含めた東西ヨーロッパ諸国の三五か国が集まって開かれた欧州安全保障会議の最終文書として発表されたものである。そこでは、次のような指摘が行われている。「参加国は、人権と基本的自由の普遍的意義を確認する。これら人権と基本的自由の尊重は、参加国間並びにすべての国家間における友好的関係及び協力の促進を確保するために必要な平和、正義並びに福利にとって基本的な要素(Essential Factor For Peace‥‥)である。参加国は、つねにこれらの権利と自由を、その相互関係において尊重し、協同してあるいは各別に、国連との協力をも含めて、これら権利と自由への普遍的並びに効果的な尊重を促進することを努力するものとする」。註一八

 一九七七年に署名されたジュネーブ条約追加議定書(第一議定書)は、無防備地域への攻撃禁止、非武装地帯への攻撃禁止を次のように定めている。「いかなる手段によっても紛争当事国が無防備地域を攻撃することは禁止する」(五九条一項)。「紛争当事国が協定によって非武装地帯の地位を与えた地帯へ軍事行動を拡大することは、そのような拡大が協定の条件に違反する場合には、禁止する」(六〇条一項)。註一九

 オスロの国際平和研究所と、ストラスプールの国際人権研究所の共催で一九七八年にオスロで開かれた「平和と人権=人権と平和」会議がある。その会議の名前からして平和と人権の密接不可分性を強調したものとなっていたが、その最終文書で次のように述べている。

「オスロ会議は、‥‥厳粛に以下のことを確認する。

1平和への権利(The Right To Peace)は、基本的人権の一つである。 いかなる国民も、いかなる人間も、人種、信条、言語、性によって差 別されることなく、平和のうちに生存する固有の権利(An Inherent Right To Live In Peace)を有する。

 この権利の尊重は、他の人権の尊重と同様に、人類の共通の利益にか なうものであり、かつすべての地域における、大小を問わずあらゆる 国民の発展にとって不可欠の条件をなす。

2基本的人権と平和は、いずれか一方に対するいかなる脅威も、他方に 対する脅威となるという意味で、不可分(Indivisible)である。

3人権と平和は、人権を促進する行動は、平和の促進と維持と結合され なければならないという意味で、国内的にも国際的にも相互依存的 (Interdependent)である。

4平和と基本的人権は、いついかなる場所においでも、不可譲かつ絶対 的なものであり、人類の共通の財産である。

 上記の諸権利の充全な実施は、各個人の政治生活への積極的かつ自由な参加に依存するので、この基本的な権利は、承認され、かつ、確保されなければならない‥」

 国家レベルの会議ではないにせよ、会議の名が示すように、平和と人権の密接不可分性がとなえられたことは、大きな意義がある。

 一九八一年に、アフリカ統一機構(OAU)により制定されたアフリカ人権憲章も、第二三条一項において次のような規定をおいた。「すべての人民(All Peaples)は、国家的および国際的な平和と安全への権利(The Right To National And International Peace And Security)をもつものとする。国連憲章によって黙示的に承認され、かつアフリカ統一機構憲章によって再確認された連帯と友好的関係の原則は、諸国家間の関係を支配するものとする。」註二〇

 

第二節 国際連合における人権と平和

 平和と人権の考え方は、国際連合においても提唱されてきている。国際連合憲章では、第一条三項において、「すべての者のために人権および基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること」を目的の一つとしている。そして、第五五条において、「人権と基本的自由の普遍的な尊重及び遵守」をするために、第五六条において、「すべての加盟国は」、国際連合と「協力して、共同及び個別の行動をとることを誓約」したのである。このことは、人権の国際的保障を初めて国際社会の普遍的課題として提起したものである。

 一九四七年に、エクアドルによって国連総会に提案された人権宣言案には、「正義と法に基づく平和の維持は、国家間の行動の基本的なルールであり、これらは、平和的で、かつ安全な発展への権利(The Right To Peaceful And Development)を有する。」註二一という条項が含まれていた。ここで注意しておきたいのは、「平和の維持」は正義と法であり、核兵器などの軍事力ではないことである。

 そして、総会では、一九四八年に世界人権宣言を採択している。その前文では、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と、平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義および平和の基礎である」こと、「人権の無視及び軽侮が、人類の良心をふみにじった野蛮行為をもたらし」たことを指摘し、「恐怖及び欠乏のない世界の到来」を「一般の人々の最高の願望として宣言」している。

 この宣言の内容は、一九六六年の総会に採択された経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約の前文と、市民的及び政治的権利に関する国際規約の前文に採用されている。(前文だけは、総会第三委員会において一九五五年に採択されていた。)

 国連において、人権をめぐる考え方が進んだのは、発展途上国である。人権に関する新しい考え方は、一九六〇年の総会決議一五一四(XV)「植民地独立付与宣言」に採用されている。たとえば、「外国による人民の征服、支配、および搾取は、基本的人権を否認し、国連憲章に違反し、世界平和と協力の促進に障害となっている」註二二と述べられていることに反映されている。

 一九六八年には、テヘランにおける国際人権会議が、テヘラン宣言を採択した。そこでは、「平和は人類の普遍的な熱望であり、平和と正義は人権と基本的自由の完全な実現にとって不可欠である」と述べられている。また、この会議の決議一六の軍縮では、「軍縮が人権の実施に及ぼしうる経済的・社会的結果を承認し、軍備競争が人間の最も基本的な経済的・社会的権利の実施にとって緊要な資源を浪費している」と指摘していた。註二三

 一九七七年の第三二回総会決議三二/一三〇人権と基本的自由の効果的な享受を改善するための国連体制における新しいアプローチと手段」においては、「外国の占領・支配・および主権・統一・領土保全に対する侵略と脅威が、人種差別、植民地主義、自決権の否定などと並んでそれ自体として人民と個人の人権の侵略であり、また人権侵害をもたらすものである」註二四と指摘されていた。

 このような人権に関する新しい考え方の中で、平和が人権の条件としてだけでなく、相互依存的なものとして考えられ、しかも、それらと発展途上国の発展の関係が強調されるようになる。

 平和的生存権(The Right To Live Or Life In Peace)または、平和への権利(The Right To Peace)を、最初に承認した国連機関の決議は、一九七六年の国連人権委員会決議五(XXXⅡ)である。この決議では、「人権の重大かつ大規模な侵害が軍事紛争をもたら」すことになり、「新国際経済秩序の実現は人権を促進するとともに平和を強化するもの」であることなどを指摘するとともに、本文では「すべての者は、国際の平和と安全の条件のもとに生きる権利、および経済的・社会的・文化的権利並びに市民的・政治的権利を完全に享受する権利を有する」ことを規定していた。

 また、一九七八年の総会決議三三/七三「平和的生存の社会的準備に関する宣言」(Ddeclaration On The Preparation Of Societies For Life In Peace)は、「すべての国とすべての人間(Every Nation And Every Human Being)は、人種、信条、言語または性のいかんにかかわらず、平和的生存の固有の権利(The Inherent Right To Life In Peace)を有する。この権利ならびにその他の人権の尊重は、すべての人類の共通の利益にそうものであり、大小を問わずすべての国のすべての分野における進歩の不可欠の条件をなすものである」(第一部第一項)と規定していた。註二五

 一九七八年の総会決議三四/八八「軍縮のための国際協力に関する宣言」の前文では、「すべての国とすべての人間が有する、戦争の脅威なく自由と独立のうちに平和に生きる不可譲の権利」を強調し、「その厳格な遵守は人類の最高の利益にそうものであり、人類の完全な発展のための不可欠の前提である。」註二六と述べている。

 さらに、一九八四年の総会決議三九/一一「人民の平和への権利についての宣言(Declaration On The Right Of Peoples To Peace)」において、改めて平和への権利を次のように述べている。「総会は、…人民の平和的生存の確保は各国家の神聖な義務であることを認識して、

1地球上の人民は平和への神聖な権利(Sacred Right To Peace)を 有することを厳粛に宣言する。

2人民の平和への権利の確保及びその実施の促進は、各国の基本的な義 務であることを厳粛に宣言する。

3人民の平和への権利の行使を確保することは、諸国家の政策が戦争、 とりわけ核戦争の脅威の除去に、国際関係における武力行使の放棄に、 そして国連憲章に基づく平和的手段による国際紛争の解決に向けられ ることを要請するものであることを強調する。

4すべての国家および国際機関に対して、国家的ならびに国際的の双方 のレベルで適切な措置を採用することによって人民の平和への権利を、 実施するよう助力すべく最善を尽くすことを訴える。」註二七

 

第三節 国際法における平和的生存権の問題

 平和のうちに生存することが、国際法においても承認されてきていることは、日本国憲法の前文でいう「平和のうちに生存する権利」を考えていく上で重要なことである。

 けれども、平和的生存権をこのような規定に違反してなされた武力攻撃等に対する制裁措置等についての問題や、これらの国連決議や宣言等が、日本国憲法でいう「平和のうちに生存する権利」とまったく同一のものであるとはけして言い切れないという問題が残る。

 ただ、少なくとも戦争のない状態で平和に生きること自体が、一個の基本的な権利であるとする考え方が、国連決議においても確認されてきていることは、日本国憲法の平和的生存権の国際的背景を考える上で、きわめて重要といえるのである。けして日本だけの特異な議論ではないのである。註二八

 

第三章 平和的生存権の憲法上の根拠

 

 歴史的背景、さらには国際法の動向などを踏まえてみた場合には、日本国憲法の前文が、「平和のうちに生存する『権利』」として謳ったことの憲法的意義が、とても大きいといえるだろう。しかし、平和的生存権を憲法裁判において主張するためには、その根拠を憲法上のどこかに示さなければならない。日本国憲法上の根拠を検討していくことにする。

 

第一節 人権規定としての憲法第九条 

 平和的生存権の先駆者である星野安三郎教授は、平和憲法の歴史的地位を、第一段階=自由権=自由国家の憲法、第二段階=社会的生存権=社会国家の憲法、第三段階=平和的生存権=平和国家の憲法として捉え、日本国憲法は、最後の平和的生存権を軸として存在するとしている。そして、平和的生存権の根拠を、「憲法典に即していえば、前文第二章に表現される『恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利』」に求めている。しかし、「平和に生きる権利は、具体的には、第二章第九条の戦争の放棄・軍備禁止によって保障される」として、平和的生存権が保障される具体的根拠は、第二章の第九条にあるとしている。

 その理由として、「戦争放棄と軍備禁止によって、国民は戦争目的や軍事目的のため、思想・良心・言論・表現・人身の自由や財産権を制限侵害されることはなくなったからである。すなわち、兵役の義務・国防に協力する義務から解放され、人的力や物的富のすべてを自由で豊かで平和な社会を建設するためにだけ使うことを保障されたからである。」と説明している。

 さらに、第九条が平和に生きる権利の保障の根拠とすることは、「第九条の戦争放棄と軍備禁止規定によって、その反射的利益として認められたものにすぎず、憲法が積極的に平和に生きる権利を保障したことにはならぬという反論もあり得るだろう。たしかに、第三章国民の権利および義務をみても、このような、平和に生きる権利は規定されていない。けれども、アメリカ憲法修正第九条に『本憲法中に特定の権利を列挙した事実をもって、人民の保有する他の諸権利を否認しまたは軽視したと解釈することはできない』とみても知りうるように、憲法に規定した権利しか保障しないという意味で、制限的列挙でなく、多くの権利のうちから例として示したという意味で、例示的列挙であることからすれば、第三章に平和に生きる権利が規定されないという事実から、その権利が保障されていないということはできないだろう。なぜならば、修正第九条の『否認もしくは軽視したと解釈することはできない』という表現からして、多くの権利の中でそれが重要な権利であっても、憲法に規定されないことがありうることを示しているからである。」註二九

 しかし、浦田賢治教授は、「第三章に平和に生きる権利が規定されないという事実から、その権利が保障されていないということはできない」という星野教授に対して、以下のように問題をなげかけている。

 「アメリカ憲法修正第九条を援用して、近代憲法の人権のカタログは例示的列挙であって制限的列挙でない、ということ自体は可能である。ただし、この説明は、明文化された『特定の権利』のほかにも『人民の保有する他の諸権利』が存在しうることを語るものではあるが、或る権利―たとえば平和的生存権―が憲法のレベルで承認される人権であることについては何ら積極的なことを語っていない。」と指摘している。

 そこで、浦田賢治教授は、「第九条が、平和的生存権の直接的根拠規定であることを、積極的に論証する必要がある」という。論証するには「法形式上の難点が伴う。まず、法文の文書構造が国民の権利・自由を積極的に表現するものでないことが明確であり、つぎに、それが位置している第二章が『戦争の放棄』と題され、第三章の『国民の権利及び義務』と截然と分離されている」からである。

 しかし、「実質的な法理が積極的に構成されれば、難点は克服されるであろう。たとえば、戦争放棄・戦力不保持が九条を通じ憲法上の規範となることにより、平和は代表民主制の論理の及ばない優越的価値にまで高められ、この価値を確保することが国家権力の義務となり国民は平和的生存権を保障された、というような法理を検討することができる」。

 この法理は、「九条を平和的生存権の直接の根拠にしているというより、むしろ九条を媒介とした全憲法規範の構造的把握において論述されている」とみるべきである。

 このようにして、第九条の人権規定性を認めるには、「九条が第三章(基本的人権)と一体となって、平和的人権の司法的保障を裁判所に義務づけている」という説明を、付け加えなければならないのである。決して、「無媒介的に九条が平和的生存権の根拠とされるのではない」のである。註三〇

 また、深瀬忠一教授は、平和的生存権を、「憲法前文のみならず、第九条、第三章の権利保障、民主主義的な統治機構を統一的に、素直に解釈する以上は、論理必然的に構成されざるをえない考え方であり、権利である。」と民主主義的な統治機構をも根拠にいれて、統一的に考えている。これも、浦田賢治教授と同様な見解に立つと思われる。註三一

 

第二節 平和的生存権の具体化としての憲法一三条

 

①一三条前段

 久田栄正教授は、世界人権宣言の「人類社会のすべての構成員固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利との承認は、世界における自由、正義及び平和の基礎をなしているので……」の文言を、『個人の尊厳』が『自由、正義及び平和の基礎』である」と捉えている。これを受けて憲法一三条前段の「『個人の尊重』は、『平和の基礎』として承認されている」という。

 また、一三条前段は「個人の尊重に優越する如何なる価値も認めぬことである」という。その理由は、「明治憲法下では個人に優越する価値として国家が対置されて、『滅私奉公』、『忠君愛国』といった価値観が支配し、それを正当化するものとして天皇主権原理があった」のだが、「現行憲法では、このような天皇主権をやめて、国民主権とし」たから、「国民を構成する『個人の尊重』、いいかえれば、個人に優越する権威を認めていない」のである。

 「要するに、憲法一三条、個人の尊重は、平和主義、国民主権主義、基本的人権尊重の不可分一体の具体化である」。そして、「憲法の三代基本原則の結節点」に「平和のうちに生存する権利」があるとしている。 

②一三条後段

 久田教授は、一三条後段の「生命、自由、幸福追求に対する国民の権利」については、一三条前段の「個人として尊重される」べき権利の内容であるという。そして、それは、「生命権、自由権、幸福追求権といったバラバラな在来の個別的基本権ではなく、又単なるそれらの総和でもなく、『個人の尊重』の内容として、個々の国民が例外なく享有している人間としての生存と尊厳を維持し、自由と幸福を求めて営むことのできる社会生活過程を支えている基礎としての権利である」と説明している。

 また、「個人の尊重から、種々の人権を引き出すことができるが、これらの権利を根底から奪い去る戦争に対する保障でなければ、この権利保障の意義はない」としている。

 次に、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」の文言については、「平和的生存権の最大尊重を国家の責務として規定している」という。

 その理由として、「現行憲法は、『政府の行為によつて再び戦争の惨禍の起ることのないやうにすることを決意し』てこの憲法を制定したのであって、憲法一三条によって「戦争の惨禍」によって一人の犠牲者も出してはならぬことが要求されており、そのために国家は、万全の措置を講ずる責務があり、あくまで、国民の平和的生存権を守ることが国家目的の最優先目標でなければならぬことを要求している。国民一人の例外なく平和的生存権を守ることは、国家の政策として平和維持以外にはあり得ない」と説明している。註三二

 

 

第三節 人権の基礎としての平和的生存権

 高柳信一教授は、第一章第三節の近代憲法からみた背景でも述べたことだが、「平和は人権が保障されるための最大不可欠の条件」であるという。というのは、「戦争になれば、人権は紙屑同様にふみにじられてしまいます。かけがえのない人権の尊厳性とか、侵すことのできない永遠絶対の人権とか、憲法がどんなに格調高いことばで謳おうとも、そんなものは無差別爆撃の下に命からから逃げまどう民衆にとっては、全く無縁のそらごとでしかない」からである。*1

 平和の問題は、西欧民主主義が捉えた近代憲法の構造の人権保障部分と代表民主制部分において、代表民主制部分であったのである。だから、「多数決によって決定される『政策』としての平和、また、われわれの政府が、国際条約によって他国に対する約束として保つ平和ではなくて、地上における最大悪を拒否する『人権としての平和』、また、国家の人民に対する約束としての平和でなければなら」ないのである。

 

第四節 平和的生存権の根拠のまとめ

 以上を整理してみると、以下の三点になろう。

①憲法前文をもとにして、憲法九条と第三章の人権条項を組み合わせて、 各個別的基本的人権のなかに読みとろうとする見解。

②憲法一三条「個人の尊重」こそが、「平和の基礎」であり、そのなか に平和的生存権を読みとろうとする見解。 

③憲法の人権の基礎としての平和を人権として捉えるべきであるとする 見解。

 日本国憲法前文では、他国にはない「平和に生きる権利」を、わざわざ明文化し、これを受けて九条で一切の戦争を放棄し、そのための一切の戦争を想定する諸制度を設けていないということは、平和的生存権の保障が人権条項のなかにあることを読みとらなければならない。とすると、①の見解ように、基本的人権そのものに内在するものとして平和的生存権を根拠づける必要がある。

 また、②の見解のように、個人を尊重することこそが、平和のための大前提でもあるので、一三条も根拠となりうる。しかし、「平和的生存権を守ることは、国家の政策として平和維持以外にはあり得ない」というのは、平和の問題を多数決によって決定されることを意味するので、近代憲法の歴史、③でも見たとおり疑問が残る。国家による政策も必要であり、大変重要ではあるけれども、それだけでは、たりないのではないだろうか。人権を尊重することが「平和の基礎」でもあり、また、「平和の基礎」が人権を保障することでもある。

 憲法の人権の基礎としての平和を捉え、憲法前文をもとにして、憲法九条と第三章の人権条項を組み合わせ、その中でも、「個人の尊重」が重要であるということになるだろう。

 ①説、②説、③説単独では、必要条件ではあるけれども、十分条件にはならない。結局、憲法前文、第九条、第一三条及び第三章の人権条項全体が複合して根拠となりうるのである。

 しかし、平和的生存権の直接の根拠の源は、「憲法典に即していえば、前文第二章に表現される『恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利』」から、導き出されたことは間違いない。

 

第四章 前文の法的性格

 

 さて、憲法前文第二段を平和的生存権の直接の根拠とする際に、検討を要するのが前文の法的性格である。前文の法的性格を検討してみよう。

 

第一節 前文とは

 憲法の前文は、「憲法制定の由来・目的・制定者の決意などを宣言するものであるが、そこにその憲法の基本原理が述べられるものである。日本国憲法の前文もその例外ではない。しかも日本国憲法の前文は、極めて長文であり、この憲法の原理が極めて詳細に述べられている」ものである。註三三

 また、日本国憲法の前文は、「憲法の一部をなし、本文と同じ法的性質をもつと解され」註三四ている。この点について争いはない。ですから、前文は、「本文とともに最高法規としての性格をもち、それに反する法律などの下位規範は効力を有しないものとなる。(九八条一項)ただし、前文と下位規範の適合性についての判断を裁判所が行うことができるか(八一条の問題)、言い換えれば、前文がそのような意味で裁判規範性をもつかどうかについては、説が分かれる」註三五ところである。

                    

第二節 前文の裁判規範消極説

 裁判規範について、芦部信喜教授は、広い意味では「裁判所が具体的な争訟を裁判する判断基準として用いることのできる法規範」であり、狭い意味では、「当該規定を直接根拠として裁判所に救済を求めることのできる法規範、すなわち裁判所の判決によって執行することのできる法規範」であるとしている。

 憲法の前文の規定については、「抽象的な原理の宣言にとどまるので、少なくとも狭い意味での裁判規範としての性格はもたず、裁判所に対して前文の執行を求めることまではできない」と解している。註三六

 佐藤功教授も同様に、以下のように述べている。前文は、「もとより単なる精神的宣言ではなく、憲法典の一部をなすものであるから、法的効力を有する法規範たる性質をもつ」と法規範は認めながらも、「前文の法的効力は、本文各条項の場合とは異なり、直接に法律や国家機関の行為を拘束するものではない。すなわち、前文の内容は平和・
国民主権・基本的人権などの抽象的な原理・理念であって、その具体的内容は本文条項によって定められる。従って、何らかの法律や国家機関の行為を違憲であると主張する場合は、直接には本文条項の規定に違反することが理由とされるのであって、裁判所も直接に前文違反を理由として違憲と判断すべきでない。すなわち、裁判所が直接に適用することのできるいわゆる裁判規範となり得るのは本文各条項であって、前文ではない」と、前文に裁判規範性を認めていない。但し、「本文各条項の規定の意味内容が明らかでないとして問題となる場合には、前文は、それらの規定の解釈の指針としての役割を果たす」としている。註三七 

 

第三節 前文の裁判規範性消極説への疑問

 両教授は、前文の裁判規範性に対して消極的な考えをしている。これに対して、樋口教授は次のように指摘している。消極説も、「前文を本文各条項の『解釈基準』として援用することには異をとなえておらず、本文各条項の意味を解釈によって充填する際に前文を効果的に用いるならば、積極説とのちがいは実質上それほど大きくない」という。

 消極説においても、「前文という規範形式が九六条・九八条のいう意味での『この憲法』に入るとしながら、八一条の意味での『憲法』でないということを論証するような議論は提出されておらず、裁判規範たりうるかどうかは、それぞれの規定内容の特定性・具体性に照らしてきめられるべき」であるという。註三八

 また、前文の内容が、抽象的な原理・理念の宣言であることを指摘できるにしても、「本文中にも抽象的な規定は少なからずある。したがって、表現の抽象性を根拠にして、前文と本文の法的性格を区別しようとする試みは適切とはいえない」のである。そして、「法的効力という場合、ふつう、ある法令の解釈基準として援用されることまでも含み」、「前文が憲法典の一部である以上、このような法的効力までも否定することは不可能」である。註三九

 前文の裁判規範性について積極的な杉原泰雄教授は、憲法の前文と本文につきその法的性格を区別することは許されないし、前文であるから裁判規範性をもたないとすることもできない」としている。ですから、前文の「改正についても九六条の手続きが必要とされ、前文について法規範性を否定する積極的規定は存在しない」ので、「憲法の七六条三項、八一条、九九条は、前文を除外することなく裁判官が憲法に拘束される」としている。確かに、「九八条一項はその条規という表現を用いている」けれども、七六条三項、八一条、九九条の条項からみても、「前文を除外するものとは解されない」のである。ということは、「前文もまた裁判規範性をもっている」といわなければならないだろう。註四〇

                        

第四節 前文の裁判規範性を認める例

 前文の裁判規範性を認める例を、二つ紹介する。一つは、フランスの例である。フランス第五共和国憲法の本文には、一切の人権条項も含んでいないけれども、「フランス人民は、一九四六年憲法前文で確認され補充された、一七八九年宣言によって定められたような、人権および国民主権の原則に対する愛着を厳粛に宣言する。」註四一という、簡単で、抽象的な文言が、憲法院によって、法律を対象とする違憲審査の基準として積極的に用いられ、裁判規範としての役割を果たしている。

 二つ目に、日本の例である。杉原泰雄教授は「日本の裁判実務においても、前文に裁判規範性を認めるのが一般的傾向である」と述べている。事実、砂川事件最高裁判決註四二においても、「前文の趣旨」という表現のもとに、法的効力は是認されているのである。

 しかし、百里基地控訴審判決だけは、「憲法前文は、それ自体裁判規範としての性格を有しない」との理由から、前文に裁判規範を認めていない。註四三

 

第五節 前文の裁判規範性消極説への反論

 浦田賢治教授は、前文の性格を「道徳の特殊な領域である」と捉えている。前文では、「道徳的に正しいことと、法的に権利であるものとが一つになっているのであって、この『平和のうちに生存する権利』の性質―道徳的権利―は、また憲法前文の性格でもある」という。

 法哲学の立場から道徳的権利とする把握の仕方は、「平和的生存権を憲法『前文での唯一の権利』としながら、その『権利性』を前文一般の法的性格の次元でしかとらえていない」こと、また、平和的生存権の「『権利性』を憲法前文の次元だけで捉え、九条あるいは人権諸条項との関連において具体的に捉えていない」ことに特徴がある。

 ところで、前文の裁判規範性を肯定しない消極説においても、憲法前文が「解釈の指針としての役割を果たす」ということは、「裁判官が本文解釈の際、前文に拘束されるという意殊においては、間接的に前文が裁判規範であることを示す」ことになる。芦部教授のいう広い意味での裁判規範のことであろう。

 問題は、前文が「直接に裁判規範でありうるか、いいかえれば訴訟当事者が直接にある行為につき直接憲法違反を主張または抗弁し、裁判所が判決理由で前文違反と判示することができるかどうか」というところにある。

 前文の裁判規範性を肯定しない消極説の理由は、必ずしも説得力があるとはいえない。その理由を三つ述べる。第一に、前文が抽象的であることについては、「前文の抽象性と本文各条項の抽象性の差は相対的なものであって、前文の裁判規範性を一般的に否定する理由としては形式的すぎ」てしまうことである。

 第二に、「すべての法規が直接裁判規範であるとは限らない」ということについては、「一定の法規が直接裁判規範性を有することを否定するものではない」ということである。

 第三に、「前文規範の内容が本文各条項に具体化されており、直接前文を適用する必要がないこと」については、「前文規範のなかにはその内容が本文各条項に必ずしも具体化されていない部分がある」という。

 この点について消極説は、「憲法の根本規範に関し本文の規定に欠缺あるときは直接前文が適用できることを理論上一応承認する」けれども、「具体的に憲法条文に欠炊があるとは考えられず実際上その問題はおこる余地がない」としている。

 しかし、根本規範としての『平和のうちに生存する権利』は少なくとも本文各条項では不明確な権利である」のだから、消極説のいう「『欠缺』の問題が実際に生じうる」ことになる。また、「『平和のうちに生存する権利』は憲法の基本的価値の表現形態である」のだから、消極説のいうの「『根本規範』に該当する」ということになる。こうして、「前文の直接裁判規範性を一概に否認することには合理的理由がない」ということができる。註四四

 

第六節 前文の裁判規範性

 広い意味での裁判規範は、百里基地控訴審判決以外の判例においては承認されている。しかし、救済を求め、判決によって執行できるという狭い意味での裁判規範はくだされていない。

 しかし、「前文の直接裁判規範性を一概に否認することには合理的理由がない」ので、前文第二段の「平和のうちに生存する権利」については、前文一般と区別し、特殊なものとしてその裁判規範性を検討する余地があるだろう。それは、「前文で唯一の権利」として確認されているにもかかわらず、本文各条項では不明確な権利だからである。

 結局のところ、前文の裁判規範性は、その具体的内容の弁証いかんによるであろう。

 

 

第五章 平和的生存権の享有主体

 

 前文第二章の「平和に生きる権利」が、直接裁判規範たりうるかどうかは、どのような権利であるか、規定内容を具体的にしなければならない。そこで、以下には、まず平和的生存権の享有主体について検討してみることにする。

 平和的生存権の享有主体は、①個人、②民族、③両者の三つに分類することができる。

 

第一節 個人を享有主体とする学説

 平和的生存権を肯認する学説の多数は、①の見解をとっているとみなしていいだろう。たとえば、深瀬忠一教授は、次のようにいう。「日本国憲法により、日本国民(個人が主体。集団的・地域的・国民的・国際的に連帯しうる)に実定法的に保障され、また権利の普遍性と平等性のゆえに、在日外国人にも同様の保障が及ぶべきであり、またその精神を『全世界の国民』に対し実現してゆく課題と責任があり、国際的人権の保障との協力が必要かつ可能である」としている。註四五

 さらに深瀬教授は、平和的生存権を確固たるものにしようと「総合的平和保障基本法試案」をつくっている。そして、その第八条において「総合的平和的生存権保障の担い手は、……主権の存する日本人民全体(個人一人一人および自発的諸集団)である。」註四六としている。

 山内教授も同じように、「具体的実在的な人間個々人およびその具体的、実在的な集合体としての人民または国民と捉えるべきである」註四七といっている。

 浦田一郎教授は、「主体は個人と考えるべきであり、そうでなければ、平和を人権としてとらえる意味がなくなる」という。そして、「個人を、主体として考える場合、現実に平和を実現していくためには、個人を基礎においた社会的運動が必要」であるとしている。

 そのためには、「個人が企業社会から解放される必要がある」という。その理由は、「現実の多くの個人は、そのなかで競争と差別による生き方しか考えられない存在になっている」からである。さらに、「『全世界の国民』の平和的生存権の実現に取り組むためには、企業社会を変革する自覚と努力が必要である」としている。

 他方で、「社会的運動の発足として新しい国家がつくられると考えるときに、社会や国家と個人の緊張関係を自覚するのでなければ、平和的生存権やそもそも憲法を考える意味がなくなる」ので、「主体の社会的形成は平和運動や社会運動の課題であり、憲法論の構成においては個人を主体としてとらえるべきである」としている。註四八

 

第二節 民族を享有主体とする学説

 民族を享有主体とする学説として長谷川正安教授があげられる。長谷川教授は、「平和的生存権と言って、われわれがいま問題にしているものは、ただ単に個人的なものではない。…個別的に第三章で認められている、いろいろな権利のもう一つ底にある、日本国民の、あるいは日本民族の権利として、国民的にも、また国際的にも、主張し得るような、そこで、国際法と憲法というものとの接点が出てくる、そういう性格をもつものではないかという気が、最近は非常に強くするわけです。それは、個人的な市民的基本権、階級的な社会的基本権とは少しちがう、民族的な基本権なのではないかと思うようになったのです。」註四九と述べて、平和的生存権を、個人的な市民的基本権、階級的な社会的基本権とは少しちがう、民族的な基本権であるとしている。

 

第三節 個人と民族の両方を享有主体とする学説

 浦田賢治教授は、対外的関係と対内的関係に分けて説明している。対外的関係では「国家(民族)の他国(他民族)に対するもの」であり、対内的関係では、「国民(集団または個人)が平和条項により法規範的拘束をうけた公権力に対して直接主張できる権利である」としている。

 また、対内的関係においては、「主観的権利であって公権力を名宛人として一定の場合に裁判的救済を求めることができる権利」でもあるとしている。註五〇

 影山日出弥教授は、対外的側面と対内的側面に分けて説明している。平和的生存権は、対外的側面では、「民族、全体としての国民を主体とする基本権」である。この側面では、平和的生存権は「国家主権の対外的側面にかかわってくる」としている。対内的側面では、「平和的生存権は国民の人権の性質をもつ」としている。そして、「人権としての平和的生存権は、すくなくとも、公権力による軍事目的の勤務を国民に負担させることを禁止する効果をもつ」ものであるとしている。註五一

 

第四節 享有主体の検討

第一項 日本国憲法の立場からの検討

 山内教授は、平和的生存権の主体を考える場合、何を重要と捉えるのかが問題であるという。これについて、以下のように述べている。日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにする」ことを決意して制定されたものである。九条の戦争放棄と戦力不保持は、このような憲法の趣旨に沿って、日本国政府に対して向けられたものである。

 これを国民の立場から捉え直した場合、「国民にとっては政府が戦争に訴え、かつそのことによって国民の生活なり生命なりを犠牲にすることのないようにすることが第一義的に重要な関心事」になる。そして、このことを「平和的生存権に即して考えれば、平和的生存権も、第一義的には平和を侵害し、平和に生きる権利を侵害しかねない政府に対して国民の基本的人権として主張されるところに重要な意味が存する」のである。

 憲法前文の「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」という文言は、平和的生存権を『恐怖』からの自由や『欠乏』からの自由といったすぐれて個人的、具体的な人権と並べて書いている」ことからしても、憲法前文で平和的生存権の主体とされている「全世界の国民」とは、「すぐれて具体的・実在的な国民個々人(あるいはその具体的・実在的な国民の集合体)と捉えるべきであって、そうではないところの抽象的・観念的な国民・国家というように捉えるべきではない」のである。

 日本国憲法の立場からすれば、平和的生存権の主体を「国民個々人」として捉えることにする。

 

第二項 対外的関係からの検討

 対外的関係からみた場合、平和的生存権が、外国からの武力攻撃によって、侵害されるという事態も考えられる。この場合には、「具体的・実在的な国民個々人の平和的生存権が対外的な関係で侵害されるのみならず、結果的には日本国民全体が、あるいは日本民族がその平和的生存権を侵害される」事態もありうるであろう。この意味では、平和的生存権の主体として民族あるいは国民全体が考えられうるとしたことには、それなりの根拠があり、評価できる。

 しかし、平和的生存権がこのように対外的関係において問題となる場合にも、注意しなければならないのは、「国家そのものが平和的生存権の主体として登場すると考えるべきではない」ということである。どういうことかというと、「対内的な関係においては、平和的生存権の主体が具体的・実在的な国民個々人(あるいはその具体的・実在的な集合体)と捉えられるべきとした場合には、対外的関係においても、あくまでもそのような具体的・実在的な国民個々人あるいはその具体的・実在的な集合体としての国民全体が平和的生存権の主体たるべきであって、それを離れて抽象的・観念的な国家が平和的生存権の主体となることは、同じ国家が平和的生存権の客体であると同時に主体ともなるという論理矛盾をおかすことになる」ということである。

 

第三項 救済形態の違い

 平和的生存権が、対内的関係において問題となる場合と、対外的関係において問題となる場合とでは、その侵害に対する救済の形態が異なってこざるをえない。

 対外的な関係では、平和的生存権は、第二章でも述べたとおり、国際的にも承認されつつあるけれども、その保障手段は明確にされていない。とすれば、救済は容易なことではないという問題がある。。

 対内的関係においては、国家の国民に対する人権侵害として司法的救済が可能となってくるであろう。註五二

 

 

 

第六章 平和的生存権の内容

 

 百里訴訟控訴審判決*1は、平和的生存権について、「あらゆる基本的人権の根底に存在する最も基礎的な条件であって、憲法の基本原理である基本的人権尊重主義の徹底化を期するためには、『平和的生存権』が現実の社会生活のうえに実現されなければならないことは明らかであろう」と、政治の面における意義を評価している。他方では、「平和ということが理念ないし目的としての抽象的概念であって、それ自体具体的な意味内容を有するものではなく、それを実現する手段方法も多岐、多様にわたるのであるから、その具体的な意味・内容を直接前文そのものから引き出すことは不可能である」としている。この判決のように、平和的生存権を否認する学説は、その権利の内容がばく然不明確であることをその根拠の一つとしている。

 しかし、平和という言葉が、一般的な用法としては抽象的、多義的な概念であり、ばく然不明確であることは否定できない。けれども、抽象的、多義的な概念なのは、自由とか平等といった言葉についても、同様にあてはめることができる。問題は、平和という言葉が、日本国憲法の下で、解釈を通じてその具体的な意味内容が確定できるかどうかである。註五三

 

第一節 平和的生存権の平和

第一項 消極説と積極説

 そこで、平和的生存権がいうところの平和とは、何かを検討してみたい。宮本栄三教授は、平和の概念を、消極説と積極説の二つに分けて説明している。消極説は、「戦争になれば必然的に生命、身体、財産その他の権利が侵されることになるから、戦争の準備あるいは遂行によって生じるこれらの権利への侵害を排除すること」になり、「戦争にともなう害悪からの自由」ということになる。

 積極説は、「たんに戦争のない状態での生存をいうにとどまらず、専制政治や戦争のもたらす『恐怖』または生活必需品の『欠乏』やいわれのない差別や、さらに環境破壊(その最大のものは戦争である)等々、ノールウェーの平和学者ガルトゥング(Johan Galtung 一九三〇~)のいう『構造的暴力』からも解放された状態をいう。人間らしい尊厳のための諸条件が保障されたなかでの生存ということになる。しかし、消極的平和概念の場合と同じく積極的平和にしても戦争という最大の構造的暴力からの自由がもっとも重要視されること」になる。註五四

 

第二項 平和の敵

 星野教授は、平和の反対概念として「平和の敵」という表現を使って、平和を以下のように説明している。「銃をとることを欲しないにもかかわらず、割高な給料を求めて自衛隊に志願する青年が少なくなく、さらに、ミサイル軍備や戦争には反対にもかかわらず、それと引き替えに島の開発が行われ、貧乏から抜け出せるならばと考えて、ミサイル基地に賛成する一部島民の動きを見ると、貧乏が平和の敵であるのを知り得た」としている。

 重要なことは、「貧困な生活は、侵略戦争という大ばくちをを肯定する心理的地盤を提供する。生活が貧しく、また不安なものほど、競輪、競馬などに幸せを求めることと同じである。『欲しがりません、勝つまでは』という戦時中のスローガンはこの間の事情を物語るものであり、昭和初期の農業恐慌を機に国民の多くを満州事変にかりたてていった為政者は、この心理を巧みに利用したものということができる。」としている。

 ということは、「平和な生活には、豊かな生活が保障されなければならない」ということになる。なぜならば、「家庭においても、社会においても、国家においても、富の配分をめぐって争いがあるところに平和はない」からである。

 そして、「豊かな生活は平和の基礎」である。「ILO憲章前文に『世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができるから、世界の平和の協調が危うくされ、大きな社会不安を起こすような不正・困苦および窮乏を多数の人民にもたらす労働条件を改善することが急務である』と規定したのはこのことを示している。」註五五

 

第三項 憲法擁護運動を通して 

 北海道基督教者平和の会の会員でもある深瀬教授は、その平和憲法擁護運動を通して以下のように述べている。「恵庭の牧場、あるいは長沼の田畑の米作等に対する援農、そこで生きて働いている野崎さん一家等農民あるいは長沼の清水さん他住民の平和な生活と人権を守ることは不可分である。平和とは人権を守ること」註五六である。

 

第四項 平和とは

 日本国憲法にいう平和とは何かを考える場合には、その前文に、「恐怖」、「欠乏」という文言が、記されていることを留意しなければならない。そうすると、狭義に捉えた「戦争にともなう害悪からの自由」だけではなく、広義に捉えた「人間らしい尊厳のための諸条件が保障されたなかでの生存」といわなければならない。

 また、「貧乏が平和の敵である」ということは、「豊かな生活の保障」こそが平和である。日本国憲法の目的は、人権の保障にあり、いいかえれば、「豊かな生活の保障」のためにあるということもできる。

 日本国憲法にいう平和、つまり、平和的生存権の平和とは、人権を保障するということである。そうすると、憲法=人権保障=平和=豊かな生活=平和的生存権という関係が成り立つのではないだろうか。

 

 

第二節 平和実現の手段

 次に、平和を実現するための手段が問題となってくる。戦争放棄による平和的手段がとられるべきだとする立場が一般的であるが、軍事的手段が必要だとする立場もある。たとえば、砂川事件最高裁大法廷判決では、「わが国が主権国としてもつ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、我が憲法の平和主義はけして無防備、無抵抗を定めたものではないのである。……わが国が、自国の平和と安全を維持し存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない」と、軍事的手段を肯定している。ここでは、平和を実現する手段を検討してみる。

 浦田一郎教授は、平和を実現する手段の問題は、立憲主義の捉え方の問題であると捉えている。そして、浦田一郎教授は、①自然法と実定法、②国際法と憲法、③目的と手段または憲法の精神と規定、④禁止と根拠、⑤憲法前文と九条の関係の五つに分けて説明している。

 

第一項 自然法と実定法の問題

 「実定法に対して、自然法を優位させる解釈態度をとることによって、軍事力による平和を基礎づける」考え方がある。自然法思想のもとでは、「自然権を実現する手段は、君主の一方的意志に委ねられる」と考えられることがあった。しかし、立憲主義思想のもとでは、「社会契約の理念を経て、実定憲法によって規定された手続きによって表明された国民の意思に基づくものでなければならない」と考えるようになった。そして、憲法は、「『国民の総意』あるいは『全員の意志』の最も高い段階における表現」であることになったのである。ということは、「実定憲法を破るようなかたちで自然法を主張することは、立憲主義の原理のもとでは許されない」ことになる。それは、「立憲主義の原理を超えた問題である」という。

 

第二項 国際法と憲法の問題

 憲法に対して、国際法を優位にさせる解釈態度をとることよって、自然法論と同様の結論を導き出そうという考え方がある。しかし、「国際法によってどのような地位が日本に対して認められるかと云うことによって、どの国家機関がどのような権限を有し、どの人権がどのように制限されうるかが明らかになるものではない。これは憲法の根拠を要する問題である」としている。

 

第三項 目的と手段の問題

 砂川事件最高裁大法廷判決では、「平和的生存権から『自衛のための措置』を引き出し、安保条約を正当化していた」。「前文や九条一項前半の精神や理念を高く評価し、そこから軍事的貢献への参加を正当化」する考え方は、「抽象化された憲法の精神によって、具体的な憲法規定を乗り越えようとする」ものである。

 憲法は、「国家目的のみではなく、その実現手段をも規定」していると理解しなければならない。そうでなければ、「立憲主義はほとんど意味を持たない」ことになる。少なくとも、「国家の目的や任務の設定と目的や任務を達成するための基本的手段の設定は憲法に留保されている」のである。

 平和的生存権についても、「国家目的のみに関する権利というわけではなく、目的と手段の両方を規定している」とみるべきである。

 

第四項 憲法による権力行使の禁止と根拠の問題

 国際的軍事活動への参加を正当化するために、「憲法によって禁止されていない権力行使は、憲法に根拠がなくても許される」という考え方がある。しかしながら、「国家権力の行使は消極的に憲法の禁止にふれないだけではなく、積極的な憲法の根拠をも必要とする」。日本国憲法には、「軍隊の指揮権や宣戦布告権など、軍事権力を根拠づける規定は存在しない」のである。

 

第五項 前文と第九条の問題

 憲法前文は、抽象的に憲法の理念や目的を示している部分が多い。平和的生存権もそうである。したがって、平和的生存権を実現するために、「具体的手段として、軍事的手段を想定することは、従来の通常の国際理解を前提にすれば、不可能ではない」であろう。そのために、九条は、戦争放棄、武力の不保持という具体的手段を明らかにしているのである。

 

第六項 平和的生存権の手段

 これらのことから、憲法解釈は体系的に行われなければならない。軍事による平和という議論は、「憲法全体から見れば、憲法に含まれていない命題を論者が前文に持ち込み、それによって九条を無視しようとしているものである。九条を有する日本国憲法の下では、平和的生存の実現は平和的手段によらなければならない」ことになる。註五七

 

 

第三節 平和的生存権の具体的内容

 

第一項 星野説

 星野教授は、平和的生存権の具体的内容を、①消極的・受動的権利、②能動的な参加の自由と権利、③積極的権利の三つに分類して説明している。

①消極的・受動的権利

 一切の戦争協力・国防・軍事協力の義務から解放されたという点で、消極的ないしは受動的な自由と権利である。いいかえれば、戦争と戦争準備さらに軍事力による人権侵害を排除しうる自由と権利であり、その内容が考えられる。

一憲法第十三条・第十八条、生命の自由と意に反する苦役からの自由と 関連して、兵役を起用性されない自由と権利、すなわち個人が兵役を 強制されないという主観的権利と、徴兵制は違憲であることによって 制度的に保障される。

二憲法第十三条、幸福追求の権利の一種としてのプライバシーの権利か らして、軍事目的からする国勢調査や情報収集を拒否する権利。この 点、防衛庁の要請による、自衛官志願適格者名簿は問題である。

三憲法第十九条、軍事的に国を守るという愛国心や忠誠審査をうけない 権利。

四憲法第二○条、過去の侵略戦争や軍国主義を礼讃したり、美化し強化 する傾向の宗教団体ないし施設に公権力が好偶ないしは援助を与え、 それに礼拝することを強制されない権利。この点は、靖国神社国営法 案は問題である。

五憲法二一条、国防軍事目的のため、集会、結社、言論、出版、取材、 報道、集団行動等、表現の自由を制限、侵害されない権利。刑事特別 法、MSA援助兵器秘密保護法の存在と、米軍や自衛隊反対運動に対 する警察の介入問題。

六憲法二二条、国防・軍事目的からする強制疎開や強制徴用など、居住 ・移転・職業選択の自由を制限されない権利、外国への移住や国籍離 脱の自由を軍事目的から制限されない権利。

七憲法二三条、・第二六条。軍事研究や軍事訓練、教育を強制されない 権利(企業による新入社員の自衛隊訓練)。

八国防・軍事目的のための土地や財産の強制収用を受けない権利(米軍 基地のための土地使用等の特別措置法)

九憲法三○条。国防・軍事目的のため、税金を徴収、使用されない権利。

一〇憲法三一条以下、人身の自由保障規定。国防軍事目的からする罪刑 法定主義や適正手続条項の改変や制限を緩和されず、軍事裁判を強制 されたり、逮捕・監禁・居住侵入などの憲法上の諸権利を制限・侵害 されない権利。

一一憲法第一三条・第二五条。国防軍事目的からする騒音、土地の荒廃、 水流の汚濁化、事故、電波妨害などの軍事公害からの自由と環境を保 全する権利。

一二憲法第二八条。国防軍事目的からする労働基本権の制限をうけない 権利。

②能動的な参加の自由と権利

 戦争に反対し、軍事力の増強に反対し、その縮減や撤廃運動を行う参加や行動の自由。

 すなわち、一切の戦争や軍事基地、駐留米軍や自衛隊、戦争協力や軍需産業に反対する行動や、憲法第十六条の請願、憲法第三二条や第十七条による差止請求、損害賠償ないしは国家賠償法による訴訟など、一般市民法秩序に違反しない限り、処罰や差別待遇をされない権利。

 これらの権利は、軽犯罪法、道路交通法、公安条例などの運用を通じて、たえず問題にされている。

③積極的権利

 積極的に国家・公共機関や公権力によって、社会正義に適合し永続的で安定した豊かな平和を確保創造せしめる請求の権利。

 たとえば、再び戦争の惨禍をもたらさないために、戦争体験や犠牲・破壊の記録や映像を保存し展示し記念する施設づくり、またはそれへの補助、戦争犠牲者、とりわけ原爆被災者に対する公的扶助、原水爆の実験の停止や国際査察、国際的な平和と理解のための人的、物的、文化的交流を促進する多様な措置を請求する権利などである。註五八

 

第二項 深瀬説

 深瀬教授は、平和的生存権を、「人類普遍の自然法に基づく基本的人権であって、日本国憲法前文において、そのことを明示的に確認した上、憲法第二章第九条で、戦争と軍備放棄という明確な、客観的な、制度的保障を規定するとともに、憲法第三章の、具体的、個別的な諸条項によって、その平和に徹した主観的諸権利の側面と諸形態を保障している、平和に徹した諸人権の総体」と定義している。そして、具体的内容の例を、①国防・軍事目的からの自由、②参加の側面、③救済ないし、より良い平和実現のための請求権、の三つに分類して説明している。

① 国防・軍事目的からの自由

 国防・軍事目的からの自由は、「いわゆる自由権的な権利に関係する」ので、「法的拘束力を持ち、司法(裁判)的な救済を受けることができる」としている。そして、例を五つあげている。

一徴兵制は違憲(憲法一八条違反)である。強制疎開や徴用も違憲(憲 法二二、二九条違反)である。

二表現の自由(憲法二一条)に対して、軍事機密保護の制定による禁止 措置・重罰は許されない。

三軍事的な研究や教育を強制されることはない(憲法二三、二六条)。

四国防・軍事目的のための土地や財産の強制収用は不可能である(憲法 二九条)。

五軍事裁判の禁止(憲法三二、七六条二項)

② 参加の側面

 ①の諸権利の実定的な保障に基づいて、様々の平和ないし戦争反対運動への参加、軍事力の強化に対する反対、あるいは裁判の支援の運動等に参加する自由

③ 救済ないし、より良い平和実現のための請求権

 より正しい安定した国際平和を実現するために、あるいは、戦争の犠牲になった人々を救済するために、請求する、そして、国から具体的な給付を受けることのできる権利

 

 

第三項 浦田賢治説

 浦田賢治教授は、平和的生存権の法的内容は、一般的にいえば、「人間の平和的生存に不可欠の利益」としている。しかし、「このような抽象的内容は、一定の社会諸関係の内実に即しつつ、具体化」しなければならないという。次のように、平和的生存権の具体的内容を八つに分けて、例示的に示している。

一公権力の軍事目的追及によって平和的経済関係が圧迫されたり、侵害 されたりしないこと。たとえば、戦後、軍用負担関係法令の廃止によ り財産権を革事目的のために制限・侵害することを認めていない土地 収用法(昭二六法二一九)の存在は、右の利益を保障する。軍需生産 ・武器の輸出入を行う「営業の自由」を法認 することは許されない。 国民が義勇軍を組織したり、これに参加することを公権カとして肯定 するようなこ とは許されない。

二公権力による軍事的性質をもつ政治的・社会的諾関係の形成が許され ないこと。たとえば、兵役の義務規定をもつ明治憲法および関連軍事 立法の廃止によってもたらされた平和的社会関係が侵害されることは 許されない。徴兵制は「苦役の禁止」条項(憲法一八条)をまつまで もなく平和的生存権への侵害となる。

三軍隊・軍事機横などの軍事的制度の形成に対する批判・抵抗を抑圧す るような諸措置(たとえば軍機秘密保護法や軍事スパイ罪など)は許 されない。

四軍事施設を設けることにより軍事的危害を誘発することは認められな い。たとえば、福島判決において、高射群施設〔いわゆるナイキJの 発射基地〕やレーダー等の施設基地を設けることが、一朝有事の際に 相手方の攻撃目標になるとされたのはその一例である。

五軍事施設(いわゆる基地)の設営により、人の健康または生活環境に 関わる被害を及ぼすこと(いわゆる基地公害)は許されない。軍事高 権あるいは国家緊急権などの制度およびその発動は認められない。

六軍事イデオロギーを鼓吹したり、軍事研究を行うことが許されないこ と。たとえば、平和教育の原則を否定するような教育政策・施策は是 認されず、マス・コミ等を軍事目的のために利用できず、戦争または 戦争準備のための科学・技術研究は許されない。

七日本に滞在する外国人の平和な生活をみだりに侵害しないこと。たと えば、現在日本において平和に生活を続けている者に対し退去強制す ることによってそれらの者が直ちに生存することすらおびやかされる ことが明らかな場合に、それらの者の滞留が在留資格を失った後の不 法なものであってもこれに対し退去強制することは許されない。

八平和主義に対する公権力の重大な侵害行為に対する国民の抵抗行動に つき、憲法的価値としての平和的生存権の発動として違法性阻却が考 えられること。

 平和的生存権が以上のような性格と内容をもちうるとすれば、それは公権力に対する関係においては、直接的に適用される主観的権利である。もっとも、人間の平和的生存に不可欠の利益をめぐる社会的紛争は、私法的関係においては、民法九〇条あるいは七〇九条を通して間接的に、平和的生存権を適用して解決されるであろう。いずれにせよ、保護されるべき平和的生存権の範囲は、個別的な社会関係の内実に即して具体的に決定されざるをえないであろう。註六〇

 

第四項 山内説

 山内教授は、平和的生存権を「戦争や軍隊が一切ない、あるいはそれらによる拘束や強制が一切ない状態で平和に生存し、生活しうる権利」と定義している。そして、平和的生存権の内容を、狭義と広義に分けている。

① 狭義の平和的生存権とは、「平和のうちに文字通り生存する権利それ自体」である。言い換えると、「戦争や軍隊によって自己の生命を奪われない権利あるいは生命の危険にさらされない権利のことであり、これには、とりわけ理由のいかんを問わず(したがって良心に基づくと否とを問わず)徴兵を拒否しうる権利が含まれているということになる」。

② 広義の平和的生存権とは、「戦争の脅威と軍隊の強制から免かれて平和のうちに諸々の人権を享有しうる権利」である。言い換えると、「戦争や軍隊あるいは総じて軍事目的のために個人の自由や財産などをはく奪・制限されない権利のことを意味している。具体的には、たとえば軍事目的のために個人の財産を強制的に収用されない権利、軍事目的のために表現の自由を侵害されない権利等々である」。註六一

 

第五項 まとめ

 これらをまとめてみることは、その内容が、多義にわたり、大変難しいことである。あえていうならば、深瀬教授の説のように、平和的生存権は、「自然法に基づく基本的人権」であり、「平和に徹した諸人権の総体」ということになろう。

 また、「自由権はもちろん社会権も含めて近・現代憲法の保障する諸権利のすべて」いいかえれば、「総合的人権」ということもできるであろう。註六二

 そして、これだけ具体的に平和的生存権の内容が明確にされれば、「抽象的概念であって、それ自体具体的な意味内容を有するものではな」いという百里基地訴訟控訴審に反論でき、狭い意味での裁判規範としての道を、明るいものにしてくれている。

 

第四節 平和的生存権の位置関係

第一項 人権思想からの位置

 樋口教授は、平和的生存権は、人権思想の観点から、次のように位置づけている。

 人権思想は、「国家権力の恣意に対抗する自由の要求として」自由権、次に、「人間としての生存を確保する要求として」社会権が、「人権宣言や憲法の中に位置づけられてきた」。そして、「自由権=恐怖から免かれる権利が一九世紀にすでに実定的に確立された人権であり、社会権=欠乏から免れる権利が二〇世紀的人権である」としている。これに対して、平和のうちに生存する権利は、「二一世紀的人権を日本国憲法が先取りしようとしたものとして、位置づけすることができる」としている。註六三

 樋口教授は、前文二項三段の権利を、①恐怖から免れる権利、②欠乏から免れる権利、③平和的生存権の三つからなるものとして、捉えている。つまり、人権全体を網羅しているということになり、諸人権の総体ということができる。

 

第二項 基本原理としての位置

 憲法において、人権保障が最も基本的原理であるはずなのだが、基本原理を示すはずの前文のなかに、直接明文化している部分がないことに注目しなければならない。

 そこで、浦田一郎教授は、以下のように説明している。

 前文一項一段の「自由のもたらす恵沢を確保」するということは、人権を保障することが、「戦争放棄や国民主権と並んで、憲法確定の理由としている」という意味である。

 次に、二項一段の「公正と信義」や、二段の「専制と隷従、圧迫と偏狭」の「除去」ということは、「人権の原理を指示していると読」むことができる。

 このような規定を受けて、前文二項三段の権利があるという。「日本国憲法の全体の構造からすれば、人権保障はその最も基本的な原理であるはずであるが、基本原理を示すはずの前文のなかに、それ(基本原理)を直接明示する部分が他にない」。

 そこで、前文一項一段の「自由のもたらす恵沢を確保」するという部分と、前文二項一段の「公正と信義」や、二段の「専制と隷従、圧迫と偏狭」の「除去」という部分を受けて、前文二項三段の権利が、基本原理としての人権保障を、直接明示している部分ということができるであろう。

 

第三項 一三条との関係

 一三条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を、幸福追求権というように、前文二項三段の人権を総合的人権と捉えた場合、「仮に広義の平和的生存権とよぶこともできよう。そうすれば、広義の平和的生存権と幸福追求権がともに包括的人権として対応しているということができる」。そして、包括的人権を、平和的生存権は「歴史的に」、幸福追求権は「論理的に捉えているという関係になる」ということである。註六四

 

 

第四項 平和的生存権の位置のまとめ

① 平和的生存権の位置取りを、はっきりさせたことにより、人権につ いての基本原理を前文に読みとることができた。この意義は大きいと いえる。

② 平和的生存権は、包括的人権を、歴史的に捉えたものである。

③ 二一世紀的人権である平和的生存権を、日本国憲法に先取りしたか らこそ、日本国憲法は、「伝統的な国家の自衛権に変えて、国民の平 和的生存権を国際社会に対する日本の態度の基本にお」くことができ たのである。

 

第五節 憲法第三章で保障されている人権との関係

 平和的生存権を、諸人権の総体として捉えた場合、問題となってくるのが、憲法第三章で保障されている在来的な人権との関係である。在来的人権でも保障しうるものであれば、平和的生存権を提唱する意義が、なくなってしまうことさえありうる。そこで、どうしても検討しておかねばならない。

 

第一項 徴兵拒否権

 たとえば、徴兵を拒否することは、一八条や一九条の在来的人権で保障できるであろうか。第六章第三節の中で、星野教授は、一八条によって制度的に保障されているという。また、浦田賢治教授は、一八条をまつまでもなく平和的生存権違反としている。これに関して、山内教授は、一八条や一九条では「カバーしえない」として、次のように説明している。

 一八条について述べると、これと同種の規定である合衆国憲法修正一三条*1をもつアメリカにおいて、「一般に徴兵制は修正一三条違反とは捉えられない」という。同様のことは旧西ドイツ基本法一二a条*2の場合にも妥当するという。

 「一八条に関して指摘しうることは、一九条についても当ては」めることができるという。しかも、「一九条の場合にはせいぜい認められる可能性があるのは、良心的兵役拒否権であって、理由のいかんを問わず徴兵を拒否しうる権利ではない」という。

 これらのことから考えると、徴兵拒否権の根拠規定として、一八条や一九条だけでは不十分である。そこで、「前文の『平和のうちに生存する権利』、憲法九条、さらには憲法一三条などとの有機的な関連の下で初めて可能となりうる」のである。「一八条や一九条のみ単独で徴兵拒否権の根拠規定となりうるわけではけしてない」ということができる。

 

第二項 表現の自由

 次に、「軍事目的のために表現の自由を侵害されない権利」は、憲法二一条でカバーしうるのできるであろうか。これについて山内教授は、次のように述べている。

 「表現の自由を手厚く保障した」はずの合衆国憲法「修正一条の下でも、スパイ罪の規定は」存在している。さらに、「軍事情報は情報公開法によっても公開されえない」という。

 また、市民的及び政治的権利に関する国際規約は、一九条二項において「すべてのものは、表現の自由についての権利を有する」と規定している。ところが、同三項においては「国の安全」のためには、「一定の制限を課することができる」としている。

 これらのことから考えると、日本国憲法の下でも、「軍事機密を否認し、軍事情報の公開を求め、かつその取材・報道の自由を主張しうるのは、二一条の在来的な表現の自由だけでは不可能であ」るということになる。表現の自由を保障することも、「九条や前文の『平和的生存権』を媒介して初めて可能」になってくるのである。註六五

 

第三項 在来的人権の問題点

 ここでは、徴兵拒否権と、表現の自由の二つを考察したが、在来的人権では、どうしても、カバーしきれないという問題点が出てきた。けれども、憲法第三章で保障されている在来的な人権が、平和的生存権を媒介することによって、問題点を克服することが可能となった。この点で、平和的生存権は、カバーしきれない人権を補うものと捉えられる。

 また、在来的人権において保障しきれない人権もありうるので、これについては、平和的生存権で独自の概念を、具体的場合に応じて理論を構築していかなければならないであろう。

 

 

第七章 長沼訴訟一審判決

 

 在来的人権において保障しきれない場合については、平和的生存権で独自の概念を、具体的場合に応じて理論を構築していかなければならないので、その具体的事例を見ていくことにする。

 前文第二項の「平和のうちに生存する権利」が、「平和的生存権」として、現在までに、唯一認められているのが、「保安林指定の解除処分取り消し請求事件判決」註いわゆる、長沼訴訟福島判決である。平和的生存権に関する部分を中心にしてみていくことにする。

 

 

第一節 事件の概要

 昭和四四年七月七日、桜内義雄農林大臣が、北海道空知支庁夕張郡長沼町馬追山所在の保安林を、航空自衛隊高射教育訓練施設(いわゆるミサイル発射基地)および同連絡道路敷地にするとの理由により、その指定を解除した。

 これに対して、長沼町民である伊藤隆他二七〇名は、保安林の指定解除処分には、森林法二六条二項のいう「公益上の理由」がなければならないのだが、憲法第九条がある以上、自衛隊の基地建設には、「公益上の理由」などないとして、農林大臣を相手どり、右行政処分の取消しを求める訴えをおこした。

 

 

第二節 判決要旨

 裁判所は、原告である長沼町民の訴えを認め、保安林指定解除処分を取り消した。

 

第一項 訴えの利益

「森林法が保安林制度によって保護しようとしているものはその地区住民のもつ生命、身体、財産、健康その他生活の安全等の利益である」。この利益は、「たんなる反射的利益ではなく、まさに右森林法によって保護された利益である」。

 これに加えて、森林法は、「帰するところ、憲法の基本原理である民主主義、基本的人権尊重主義、平和主義の実現のために地域住民の『平和のうちに生存する権利』(憲法前文)すなわち平和的生存権を保護しようとしているもの」である。

 「もし被告のなんらかの森林法上の処分によりその地域住民の右にいう平和的生存権が侵害され」ることになるなら、または、「侵害される危険がある限り、その地域住民にはその処分の瑕疵を争う法律上の利益がある」。

 「高射群施設やこれに併置されるレーダー等の施設基地は一朝有事の際にはまず相手国の攻撃の第一目標になるものと認められるから、原告らの平和的生存権は侵害される危険があるといわなければならない。しかも、このような侵害は、いったんことが起きてからではその救済が無意味に帰するか、あるいは著しく困難になることもまたいうまでもないから、結局この点からも原告らには本件保安林指定の解除処分の瑕疵を争い、その取消しを求める法律上の利益がある」。

 

第二項 憲法前文の意義

 「一国の基本法たる憲法において」前文は、「憲法制定の由来、動機、目的、あるいは基本原理」が、「明記され、また宣言されている」。

 「わが国の現行憲法も」、「『憲法の憲法』とでもいうべき基本原理を定めている。それは、国民主権主義と、基本的人権尊重主義と、そして平和主義である」。

 「憲法の基本原理の一つである平和主義は、たんにわが国が、先の第二次世界大戦に敗れ、ポツダム宣言を受諾させられたという事情から受動的に、やむをえず戦争を放棄し、軍備を保持しないことにした、という消極的なものではなく、むしろ、その前文にもあるごとく、『われらとわられらの子孫のために……わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、…再び戦争の惨禍が起こることの内容にすることを決意』するにいたった積極的なものである」。

 「他方において、一般に戦争というものが、たんに自国民だけではなく、広く世界の他の諸国民にも、限りない惨禍と、底知れない不幸をもたらすことは、必然的で」ある。

 「このような憲法前文での平和主義は、他の基本原理である国民主権主義、および基本的人権尊重主義ともまた密接不可分に結びついている」。憲法前文第一項が、「平和主義と国民主権主義とを結びつけている」部分である。また、前文第二項は、「平和的生存権が、全世界の国民に共通する基本的人権そのものであることを宣言」している。

 平和的生存権は、国家が「政策として平和主義を掲げた結果、国民が平和のうちに生存しうるといった消極的なものではな」い。「積極的に」、「世界各国の国民に平和的生存権を確保するために、平和主義を掲げ」たのである。日本が、「平和主義をとる以外に、全世界の諸国民の平和的生存権を確保する道はない」のである。

 日本国憲法は、国連憲章前文、世界人権宣言前文の「思想と合致し、これをさらに徹底したものである」。

 平和的生存権は、「憲法第三章の各条項によって、個別的な基本的人権の形で具体化され、規定されている。ここに憲法のいう平和主義と基本的人権尊重主義の基本原理の二つも、また、密接不可分に融合している」。

 これによって、「三基本原理は、相互に融和した一体として現行憲法の支柱をな」している。

 

第三節 考察

第一項 訴えの利益(前節第一項)について

 弁護団は、平和的生存権を、「自衛隊違憲論(自衛隊の反国民性)」のところで言及していた。しかし、判決では、「訴えの利益」の中で触れている。この援用される場所が違うといういことに、着目しなければならない。

 弁護団は、自衛隊が反国民的であることを主張するために、平和的生存権を、「日本国民全体が、平和のうちに-戦争をしないような政府の下で-生きる権利」、いわば、九条の制度的保障としているのに対し、裁判所は、「地域住民の『平和のうちに生存する権利』すなわち平和的生存権」と明確に述べている。

 これらのことから、弁護団が、森林法上の取消し訴訟に付随して、いわば脇役としてしか捉えていないものを、裁判所は、主役として平和的生存権を捉えたといえるであろう。

 深瀬教授は、森林法によって保護される利益は、「単なる個人的・私的な利益ではなく、憲法上の基本的人権であって、自然的災害、人為的災害に対する『平和のうちに生存する』具体的な諸人権」註六六であると、判決直前に述べているところから、この判決をリードしたものであろう。 そうであるとするならば、「その地区住民のもつ生命、身体、財産、健康その他生活の安全等の利益」は、反射的利益ではなく、「『平和のうちに生存する』具体的な諸人権」を指していると捉えられる。

 森林法が、「平和的生存権を保護しようとしている」ということは、森林法が、平和的生存権の一部分を担っていると捉えられる。また、逆に捉えれば、平和的生存権を基礎にして、森林法は規定されたものである。そうであればこそ、森林法だけでは、とうていカバーしきれない人権があり、森林法上の原告らの人権を、平和的生存権を媒介することにより、補強して保護しようとしたものと捉えられる。

 「被告のなんらかの森林法上の処分によりその地域住民の右にいう平和的生存権が侵害され、また侵害される危険がある限り」というところの平和的生存権は、ただ単に、平和的生存権ではなくて、森林法から媒介された平和的生存権を含むことになる。

 ということは、この場合の平和的生存権は、平和的生存権自身がつくった森林法ではカバーしきれないので、再び、根源である前文第二項にもどり、媒介されることによって発生したものといえる。

 また、「一朝有事の際にはまず相手国の攻撃の第一目標になるものと認められるから」、原告である基地周辺の住民に対して訴えの利益を認めたことについては、平和的生存権における原告適格を、限定したものと捉えられる。これについて、樋口教授は、「全国民の権利を基礎として行政訴訟法第九条のいう原告適格を全国民にまで一般化してしまうことは、現在の行政訴訟の枠組みを前提とする限り、不可能である」註六七と述べている。

 他方、法や、第三章に謳われている権利ではなく、たとえば、第二章第九条違反をもとに、平和的生存権の侵害があるという場合には、平和的生存権が、狭い意味での裁判規範となることは、現在のところ、不可能といわなければならない。というのは、先ほども述べた通り、平和的生存権は、法や人権から媒介されることによってのみ、平和的生存権たりうるからである。事実、この判決の後すぐに、実定法上認められている権利ではなく、戦争公害差し止め請求註として、平和的生存権の侵害のみによって裁判所に提訴され、最高裁まで争っているけれども、敗訴している。

 また、人権侵害は、「いったんことが起きてからではその救済が無意味に帰するか、あるいは著しく困難になることも」ある。そこで、「侵害される危険がある限り、その地域住民にはその処分の瑕疵を争う法律上の利益がある」。ということは、これから、人権侵害が起こるという主観的な憶測によってさえも、訴えの利益を認めたことになる。

 

第二節 前文の意義について

 「平和的生存権が、『全世界の国民』に共通する基本的人権」としたのは、「一般に戦争というものが、たんに自国民だけではなく、広く世界の他の諸国民にも、限りない惨禍と、底知れない不幸をもたらすこと」が「必然的」だからである。

 前文二項の「平和のうちに生存する権利」が、主語を「全世界の国民」としたのはこのためである。

 日本が「積極的に」、「世界各国の国民に平和的生存権を確保するために、平和主義を掲げ」たのである。それは、政策だけでなく、憲法においても、「平和主義をとる以外に、全世界の諸国民の平和的生存権を確保する道はない」からである。

 そして、平和的生存権は、憲法において、平和主義、国民主権主義、および基本的人権尊重主義の三基本原理が、「相互に融和した一体として現行憲法の支柱をな」している。

 

第八章 平和的生存権の展望

 

第一節 沖縄県署名代行事件註六八

 沖縄県署名代行事件において国が、平和的生存権について具体的権利性、裁判規範性を否定とした理由を、次のように述べている。

①憲法前文は、理念ないし目的を抽象的に表明するにすぎず、裁判規範 となるものではなく、裁判規範となり得るのは本文の各条項であるこ と。

②「平和」とは、理念ないし目的としての抽象的概念であって、平和的 生存権の具体的権利性、裁判規範性を基礎づける根拠とならないこと。

③憲法九条は、戦争の放棄、戦力の不保持を定めた国の統治機構に関す る規定であって国民の人権規定でないこと。

④憲法一三条後段は、基本的人権に関する一般的・包括的規定であるこ と。また、仮に、人権保障の根拠を求める余地があるとしても、権利 の性質、内容、効果が具体的に特定されない限り、平和的生存権は憲 法一三条によって保障された基本的人権と解することはできないこと。

 これに反論をすることができれば、平和的生存権に裁判規範性を与え られるのではないかと考える。

①の前文の裁判規範性については、第四章で述べたとおりの理由で、前 文の直接裁判規範性を一概に否認することには合理的理由がない。

②については、第六章第一節で述べたとおり、日本国憲法にいう平和と は、「豊かな生活の保障」、そして、人権を保障するということであ る。

③については、第六章第三節第二項で述べたとおり、憲法九条を、平和 的生存権を保障するための、制度的保障と捉えることができる。また、 第三章第一節で述べたとおり、九条が第三章と一体となって、平和的 生存権の司法的保障を裁判所に義務づけているのである。

 現代の憲法は、国民の人権保障の法典として存在しているのである。 ですから、憲法のすべての条項は、人権保障との関連で把握しなけれ ばならない。したがって、九条が国民にどのような人権を保障してい るかという点が、憲法上の位置付けよりも重要である。

④については、第六章第四節第五項で述べたとおり、包括的権利である ことは、認めざるをえない。けれども、判例では、プライバシーの権 利を、一三条に基づく権利として認めている。註六九また、包括的幸福追 求権についても、その具体的権利性を認めている。註七〇ということは、 包括的権利であるからということは理由にならない。

 第三章第二節で述べたとおり、「憲法の三大原則の結節点である」という性質、「個々の国民が例外なく享有している人間としての生存と尊厳を維持し、自由と幸福を求めて営むことのできる社会生活過程を支えている基礎としての権利」という内容、「個人の尊重から、種々の人権を引き出すことができる」という効果、さらに、「平和的生存権の最大尊重を国家の責務」し、「国家の政策として平和維持」するという効果、と特定されている。

 これによって、いずれもの理由も、平和的生存権の具体的権利性、裁判規範性を否定する理由にはならないことになる。

 

 

第二節 残された問題点 

第一項 在沖米軍

 沖縄県署名代行事件での知事の準備書面は、沖縄県民の平和的生存権の侵害を、具体的に論証している。その中には、米軍から感じる数々の「恐怖」が述べられている。米兵による住宅区域内の行軍、軍用機の離発着、パラシュート降下訓練、毒ガスもれよう発見用の山羊等を見ての「恐怖」、軍用機による爆音、実弾演習による射撃音、墜落事故の音等の聞く「恐怖」、さらに、五感を通しての様々な「恐怖」がある。

 しかし、裁判の敗訴により、その「恐怖」は現在も進行中である。このような、「恐怖」による侵害は、既存の人権ではどうしてもカバーしきれないでいる。平和的生存権によって、独自の概念を具体的に構築していかなくてはならないであろう。

 

第二項 反論ではなく疑問

 ここまで、平和的生存権に前向きな学者や判例をみてきたが、疑問を投げかける学者もいることにも、触れなければなるまい。たとえば、尾吹善人教授である。尾吹教授は、「いわゆる『平和的生存権』への疑問」*1というのを執筆している。その中でいくつかの疑問を述べているけれども、「疑問」といえるかどうか疑問である。それは、反論という言葉が使える内容のものではなく、疑問としたことにもあるだろう。

 

第三項 展望

 平和的生存権は、第一章により歴史的背景が明らかにされ、第二章により、国際的にも確認され、第三章により、憲法前文、第九条、第一三条及び第三章が根拠とされ、第四章により、前文にも裁判規範性が認められ、第五章により、日本国憲法の立場から、具体的・実在的な国民個々人が享有主体とされ、第六章により、近・現代憲法の保障する諸権利すべてが内容とされたことにより、第七章において、法や人権から媒介されることにより、実際に、狭い意味での裁判規範として通用することになった。

 また、憲法=人権保障=平和=豊かな生活=平和的生存権という関係が成り立つことも、理論上可能となった。

 しかし、現在、平和的生存権は、最高裁判所大法廷において、広い意味での裁判規範性さえ、認められていていない成長途上にある権利であることに間違いない。狭い意味での裁判規範性は、いつになることであろうか。

 全世界の人々が、恐怖と欠乏から免れ、平和に暮らせる日が、少しでも早く来るように、多数決原理の及ばないところへ、平和的生存権を導き、確固たるものとするために、もっと深く研究していきたい。

 

 

 註一・渡辺洋三著「私たちの人権宣言」労働旬報社刊

    一九八二年 三八頁

 註二・奥平康弘著「憲法Ⅲ憲法が保障する権利」有斐閣刊

    一九九三年 二〇頁

 註三・奥平 前掲書 二〇~二一頁

 註四・星野安三郎教授が、「日本国憲法史考」(一九六二年 法律文    化社)のなかで、わが国憲法界において、初めてこの概念と用    語を提唱した。「平和的生
存権序論」 文献選集日本国憲法3    「戦争の放棄」深瀬忠一編三省堂刊 一九七七年           一〇七~一二〇頁

 註五・一七七六年七月四日、連合会議における一三のアメリカ連邦諸    邦の全員一致の宣言

 註六・樋口陽一・吉田善明著「解説世界憲法集」三省堂刊

    一九八八年 五五頁

 註七・「人および市民の権利宣言」一七八九年

    樋口・吉田 前掲書 二三五頁

 註八・深瀬忠一・森杲・中村研一著「北海道で平和を考える」

    北海道大学図書刊行会一九八八年七五~八〇頁

     現在でも「試案」のままであるけれども、韓国公法学界、中    国の法学界にも(中国語に訳され)紹介され、ヨーロッパやア    メリカにも(仏英訳され)広く紹介され、討議され、少なから    ず賛意が寄せられている。さらに、若干の政党では積極的に受    け止めているという。

 註九・奥平 前掲書 一七頁

註一〇・山内敏弘・古川純著「憲法の現況と展望」北樹出版刊

    一九九三年五八~五九頁

註一一・山内・古川 前掲書 六〇~六一頁

註一二・<参考文献>樋口陽一著「注釈日本国憲法」青林書院刊

    一九八四年三九~四〇頁

註一三・高柳信一著「戦後民主主義と『人権としての平和』」

    文献選集日本国憲法三「戦争の放棄」深瀬忠一編三省堂刊

    一九七七年 一九四~一九六頁

註一四・吉田善明著「日本国憲法論」三省堂刊

    一九九〇年 三七五~三七六頁

註一五・山内敏弘・古川純著「憲法の現況と展望」

    北樹出版刊一九八九年六〇~六一頁

註一六・山内敏弘著「国際人権保障の到達点と展望」

    法律時報六〇巻一二号三七~三九頁

註一七・山内敏弘著「平和と人権についての現代的視角」 

    法律時報六〇巻一二号 三九頁

註一八・山内敏弘著  前掲書 三八頁

註一九・山内敏弘著「憲法の現況と展望」六〇頁

註二〇・山内敏弘著「平和と人権について」三九頁

註二一・松井五郎著「国際法における平和的生存権」

    法律時報五三巻一二号一〇頁

註二二・松井五郎著 前掲書 一〇頁

註二三・松井五郎著 前掲書 一〇頁

註二四・松井五郎著 前掲書 一一頁

註二五・山内敏弘著「国際人権保障の到達点と展望」

    法学時報六〇巻一二号三七~三九頁

註二六・松井芳郎著「国際法における平和的生存権」

    法律時報五三巻一二号九~一二頁

註二七・山内敏弘著「国際人権保障の到達点と展望」

    法学時報六〇巻一二号三九~四〇頁

註二八・山内敏弘・古川純著「憲法の現況と展望」

    北樹出版刊一九八九年六〇~六一頁 

註二九・星野安三郎著「平和的生存権序論」一〇八頁

註三〇・浦田賢治著「憲法裁判における平和的生存権」

    三省堂刊文献選集日本国憲法三「戦争の放棄」

    深瀬忠一編二九六~二九七頁

註三一・「『平和的生存権』と恵庭・長沼裁判」

    法学セミナー一九七六年三月号五頁

註三二・久田栄正著「平和的生存権」文献選集日本国憲法三

    三省堂刊三一二~三一三頁

註三三・佐藤功著「日本国憲法概説」

    学陽書房刊第四版六一頁

註三四・芦部信喜著「憲法」岩波新書新版

    一九九七年三七頁

註三五・樋口陽一他著「注釈日本国憲法」

    青林書院刊一九八四年

註三六・芦部陽一著 前掲書 三七~三八頁

註三七・佐藤功著 前掲書 六一~六二頁

註三八・樋口陽一著「憲法」創文社刊

    一九九二年七二頁

註三九・小林考輔・越路正巳著「憲法論点セミナー」

    辛夷社刊一九九一年六頁

註四〇・杉原泰雄著「憲法Ⅱ統治機構」有斐閣刊

    一九八九年一五一頁

註四一・樋口陽一・吉田義明著「解説世界憲法集」

    三省堂刊二一九頁

註四二・昭和三四年二月六日「判例時報二〇八号」

    一〇~三五頁

註四四・杉原泰雄著「憲法Ⅱ統治機構」有斐閣刊

    一九八九年一五一頁

註四四・浦田賢治著「憲法裁判における平和的生存権」文献選集三

    「日本国憲法」三省堂刊二九七頁

註四五・深瀬忠一著『戦争放棄と平和的生存権』

    岩波書店刊一九八七年二二七頁

註四六・深瀬忠一・森杲・中村研一著「北海道で平和を考える」

    北海道大学図書刊行会刊一九八八年七七頁

註四七・「平和と人権についての現代的視角」

    法律時報六〇巻一二号四〇頁

註四八・浦田一郎著「現代の平和主義と立憲主義」

    日本評論社刊一九九五年一一九~一二〇頁

註四九・長谷川正安著「『平和的生存権』と恵庭長沼裁判」

    法学セミナー一九七六年三月号一九頁

註五〇・浦田賢治著「憲法裁判における平和的生存権」

    文献選集三「日本国憲法」「戦争の放棄」三省堂刊

    深瀬忠一編二九八頁

註五一・影山日出弥著「憲法の基礎理論」勁草書房刊

    一九七五年二〇七頁

註五二・山内敏弘・古川純著「憲法の現況と展望」

    北樹出版刊一九八九年六二~六五頁

註五三・山内敏弘・古川純著「憲法の現況と展望」

    北樹出版刊六六頁

註五四・宮本栄三著「現代日本の憲法」「人権と平和」

    法律文化社刊一九九五年七八~八一頁

註五五・星野安三郎著「平和的生存権序論」三省堂刊

    文献選集日本国憲法三「戦争の放棄」

    深瀬忠一編一一〇頁

註五六・深瀬忠一著「平和的生存権」と恵庭・長沼裁判

    法学セミナー一九七六年三月号

註五七・浦田一郎著「現代の平和主義と立憲主義」

    日本評論社刊一九九五年一一〇~一一三頁

註五八・星野安三郎著「平和に生きる権利」

    法律文化社刊一九七四年一三六~一三八頁

註五九・東京地裁判決 昭和三二年四月二五日

註六〇・浦田賢治著「憲法裁判における平和的生存権」

    文献選集日本国憲法三「戦争の放棄」

    深瀬忠一編二九八~二九九頁

註六一・樋口陽一他著「注釈日本国憲法」青林書院刊

    一九八四年四〇頁

註六二・宮本栄三著「現代日本の憲法人権と平和」法律文化社刊

    一九九五年七八頁

註六三・山内敏弘・古川純著「憲法の現況と展望」六六~六七頁

註六四・浦田一郎著「現代の平和主義と立憲主義」

    一一八~一一九頁

註六五・山内敏弘・古川純著「憲法の現況と展望」六七~六八頁

    〈参考文献〉樋口陽一著「注釈日本国憲法」青林書院刊

    一九八四年 三九~四〇頁

註六六・深瀬忠一編「転換点に立つ平和主義⑭完」法律時報

    一九七三年八月号所収

註六七・樋口陽一著「憲法裁判の若干の基本問題」

    文献選集日本国憲法三「戦争の放棄」

    深瀬忠一編二七五頁

註六七・〈参考文献〉高柳信一著「戦後民主主義と『人権としての平和』」文献選集日本国憲法三「戦争の放棄」

    深瀬忠一編 三省堂 一九七七年 一九四~一九六頁

註六八・最高裁判決平成八年八月二八日裁時一一七八号一頁

註六九・東京地裁判決 一九六四年九月二八日

註七〇・最高裁大法廷判決 一九六九年一二月二四日

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